アメリカ農業











農林省の視察団を
案内する直助
(右から2番目)


昭和43年直助もまた農場経営に困惑の色を濃くしていた。

サラリーマン農業も一人去り、

二人去り、いつの間にか農場は息子や娘の家族が

貴重な労働力になっていた。


「どうすたらいがんべなあ」と独り言をつぶやき、

直助は思案にふけるようになった。

苦しい時であれば、強引に困難を乗り切ったが、

70歳を当に過ぎた直助は、物事を実行する際

一歩踏みとどまって行動するようになった。


「わしも歳をとったもんだ」とつくづく思った。

ふさぎこんでいる直助に四男の四郎が、

「お父さん、俺アメリカに渡って大型農場経営を

勉強してきたい」と突然言い出した。


「何アメリカさ行くってぇ」

「ああ、このままじゃいい考えもうかばね。

アメリカでは地平線の果てまで

広大な陸稲栽培してる様だ。

実際に経営事情を知りたい」

「そうがー、井の中の蛙じゃ世間はわからねぇ」
直助は、南米移民を真剣に考えた事もあった。

知識のある者と無い者では、収穫面に

当然影響するという事も思っていた。


「行って来い。わしの力じゃ限界に来た。

アメリカの農業はヨーロッパから伝わったもの。

しっかり勉強して只野農場を盛り上げてくれ」と語った。



四郎は、翌44年3月に渡米しはるかなる太平洋の果て、

只野農場の再建を担って

真剣に学んでいた。

ところが、わが国では昭和44年秋、

11年ぶりの大水害に

みまわれたのである。


 この年の収穫量はゼロは免れたものの最低の

1200俵を記録したのであった。





農場と同型のコンバインでの
コーン収穫(アメリカ)










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