只野農場の歴史


日本一の大百姓只野直助伝
全盛時に180ヘクタール(TOKYOドーム40~50個分)を
一代で築いた開田王直助の一生をつづったものである


著書「土魂」より
著者 大崎タイムス 伊藤卓二氏
伊藤氏にはこのホームページ上で御礼を申し上げます


只野直助
ズッシリと重い稲を持つ在りし日の直助


直助の生家
直助誕生       


直助は明治29年3月25日直右ェ門、

はるよの二男として出生した。

生家は旧沼部村北小牛田で

幼い頃から体格は良く、村のガキ大将だった。

家の前には、

台風や大雨の都度決壊して

農民を苦しめた江合川、裏手には、加護坊山があり、

山と川にはさまれた小部落で育った。



大洪水で倒壊した
萱葺き家屋

江合川氾濫


江合川は、部落民が岸辺で川漁を楽しんだり、

子供たちの遊び場であった。

しかし、大雨台風が襲来すると、憩いの場が一変し

恐ろしい濁流となって

部落をひとのみ

にしてしまう。

明治43年8月11日午後8時、

北小牛田部落の区長代理が

鳴子から電報で洪水警報

を知らせてよこした。


その川は、次第に増水し1時間で1メートル近くも

水かさが増えた、

この年春に1メートル

のカサ上げした堤防を20センチも超え、

4ヶ所が決壊した。

この洪水は、直助の家も床上浸水させ、田んぼも畑も

スッポリ泥の海に替え、

収穫は皆無、人命をも奪う歴史に残る

大洪水であった。

     鉄道被害も甚大で、翌日から実業補修学校を辞めた

直助は、父、長兄と        

3人で復旧工事に出没した。

血気盛んな直助は、愚痴もこぼさず無言で働く父を見て、

労働からにじむ汗の尊さ

を知り、のちに開田を独力で手がけるとき、

一つの手本となるのである。





















右兄直助
左直三郎















国会で堂々と
演説する直三郎








数寄屋橋たもとで
熱弁を
振るう直三郎






兄弟の誓い


  大正4年春、直助は弟のサム

    (すぐ下の弟、後に衆議院議員日本人民党党首)

              と二人で 川向の田んぼの代かきを行った。

  「サムよ、お前は大きくなったら何になる」と直助は

 突然言った、あまり急なことで

 サムは当惑し、「直助兄いは何になる」と尋ねた。

    「オレか、百万長者だ・・・本当だど。サムは何さなるのや」

    「百万長者は無理だ、オラ政治家になんべがと思っている

  なれるなら総理大臣の椅子だ」

  代かきを一休みし将来を語り合ったら二人の夢は

 他人が聞けばド肝を抜くような

 国盗りまで飛び出しました。



やがて代かきの疲れが二人を眠りに誘った。

「直助、サムー、どごにいる。

代(しろ)サッパリかがねえで何してるんだア」

とどなる父の大声が二人をたたき起こした。

      未来の内閣総理大臣と百万長者も父の怒った声を聞いて、

青空に大きく膨らんだ

シャボン玉のように一辺でつぶれてしまった。



その後、直助は家に帰らなかった翌日もいなかった。

直助は村一番の体格(身長180㎝体重80kg)で五斗俵を二俵も

軽々持ち上げた事もあり、怪力は農作業にも役立った、

馬車があぜに脱輪したりすると、「直助を呼べ」と

重宝がられた。


その直助も姿を消し、上座の父もさすがに浮かない顔だった。

その日の朝何食わぬ顔で直助は帰宅した。

サムは直助に「どごさ行ってきたんだ」

と心配そうに尋ねた。

「南郷のお金持ちで百万長者の生活を見るため二日働いできた」

と直助は得意になって言った。直助の描いた夢のシャボン玉は、

はじけないで大空を舞った。


直助が家出したことで、父は、田んぼ二反(20アール)を

直助名義にして責任を持たせた

翌大正五年三月には嫁をもらい新婚生活を送っていたのも

    つかの間、徴兵検査を受けて秋には入営が待ち受けていた。

三年間の仙台工兵大隊に現役兵として勤務した。

大正十年正月父は「直助を分家に出す」と家族に告げた。

スケールの大きい直助が

分家に出る事は、喜びの半面、

父も二代目となる兄直政もちょぴり残念だった。

直助ほどの働き手がいないからである。