青年時代の直助


































父直右ェ門
と母はるよ
開 眼

独立はしてみたもの、相次ぐ洪水で満足な収穫も得られず、

挫折しかけていた。

「つぁん(父)に相談があってきたんだ」

「まあ、あがれや。そこじゃ話すになんめぇ」

深刻な直助の態度に兄の政直も、

母親も炉辺へにじり寄ってきた。

「実はな、オレ南米さ行っかと思ってな。

この村じゃ水害続きでとても食ってげねえべ」

炉辺につるしてあるすすけた

自在かぎを見つめながら言った。


直助の話を聞いていた父は、

しばらくして考え込んでボソリボソリ語り始めた。

「そいづは、おめえの南米行きもわがる。すかすな、

おめえを分家に出したのは、

この部落に残ってもらいたかったからだ」

苦しい論しであった。父直右ェ門とて幾度天災に

泣いたかわからない。もし自分が直助程若かったら

地球の裏側のブラジルへ飛んでいったかもしれない。

しかし、「ここで勝負しろ」と言えば、直助は

実行することが目に見えていた。

もう直右ェ門も「人生50年は」とうに過ぎ、

60歳の老齢となり、直助が南米に行けば二度と生きて

会う事はない。


わが子供たちの成長を楽しみに天災を乗り越え、

生きてきた。

せめて10人の子供たちに見守られ、

臨終の床につきたいという願いもあった。


「ブラジルに行ったら最初は開墾だが。おめえは

上谷地開墾で

5町歩の田んぼを築いたでねえが」

父の説得に政直は助け舟を出した。

「おめえの体力だったら南米でもたちどころに通用すっぺ。

同じやるならこの部落でやってみろ」

政直は父と同じく、直助の南米行きを思いとどめるのに必死だった。

父、そして長兄がこれほど直助の事を心配し、

頼りにしているとは思わなかった。

直助は自分だけが天災に苦しんでいると思っていた。

今、父、長兄は北小牛田でもまだまだ開墾できると直助の

フロンティア精神には賛成してくれた。

結局直助の南米行きは父や長兄の説得で断念し、

夜遅くまで上谷地の遊水地帯の開墾計画を語り合った。












ちょっとの降雨でも
冠水した
「南米」の一角




























大洪水で家屋
が倒壊
涌谷町

開墾

      

  直助が開田に着手したのは、大正13年田尻川と江合川の

合流点にある遊水地帯。再三集中豪雨で両河川が氾濫し、土砂

流木、あげくにカヤが群生し、50町歩はある荒地で、

とても開墾できる所ではなかった。

直助は開墾事業の第1歩を踏み始めた村外れの

荒地はそういう所だった。

開墾を決意した直助は早速資金繰りに奔走する。

ある神社の神官に相談してみた。神官は金貸しをしていたが、

滅多な事で融通をしてくれなかった、まして世情は銀行が倒産する

ほどの経済恐慌で、高利貸しも貸し倒れを心配して、

よほどの信用がない限り貸してはくれなかった。

「一体あんたはいくら持っている」と神官が尋ねた。

当時、畑が80円、

田んぼは300円で買えたとき、

苦しい生活の中から節約して

10日に

1回づつ郵便貯金を続け、

二年余りで600円を上回っていた。

「オレは南米に行くつもりだったが、

つぁんに口説かれてあきらめだ。

オレは南米に行ったつもりであそこを耕すんだ」

直助は真剣だった。それにもまして神官は、

ここ数年水害続きで水稲収入が極めて少ないにもかかわらず

600円の積立に驚いた。

一度奥座敷に消えた神官は、両手に札束を持って(5000円)

をにぎってあらわれ、「直助さん、通帳の額面見て貸すんじゃない。

あんたの努力に貸すんだ。」

神官の資金援助で直助は勇躍して開田に乗り出した。

遊水地帯は元涌谷村上谷地と隣接し田尻川に

江合川の合流点で台風、長雨の都度に

水浸しとなる常習冠水地帯であった。

この荒地を持っていた農民は3年に1度しか

収穫がなく、それも凶作続きで持て余し気味であった。

しかし遊水地帯といっても勝手に開墾できない。

直助は神官が出資してくれた5000円(現在の一億円)を

資金に地主農民の足がかりをつかんだ。

「あんな荒地に金をかけるだげバカげてる」

「ムダなあがぎだ」

「骨折り損のくたびれもうげだ」と

誰一人合意するものはいなかったが、

直助はこの荒地を

見事な美田にしてみせると豪語した事から、

興味本位も手伝って、「ホンならやってみろ」と言う事となった。

地主農民は50人で約60町を所有していたが、

このうち50町を買収する事に成功した。

大正13年から昭和4年まで根強い買収交渉を重ね

50町歩500枚の田んぼをもった大百姓にのし上る。若干34歳であった。





 

















開墾地に立つ直助















全盛期は700人
の植えっ人で
祭りの様だった
機械化のはじめ 


上谷地開墾は耕地面積50町歩に拡大したが、

収量は再三の洪水で低迷していた。

昭和9年直助は北小牛田大沢部落からも

田植時期には植えっ人を雇い500人を越す

人足とともに5月晴れの中で

いっしょに田植をし、

「今の倍の田んぼをもってみせっつぉー」と

豪語したと古老は言う。

また、植えっ人が痛む腰を伸ばして

「直助さんよー、人間の頭数じゃ、田植も限界があっぺ」

と尋ねたら、「100町歩田んぼ持ったら、空から飛行機で田植をすっぺか」

と言って植えっ人を笑わせた事も逸話として残っている。

直助が描いた水稲栽培は、トラクターで耕し、

田植機械でする現在を、予知したものであろう。

しかし、開田の大半は砂地、又は砂質壌土で早急な土地改良が

必要になっていた。

反当3俵弱の凶作で早速県庁へ

足を運んだ。

知事室を尋ねて

相談したところ、耕地課ヘ案内されて

床締工事を認めてもらった。

県と農林省がトラクター二台の

貸与を受け、昭和11年から3年計画で

床締工事を完成させた。

これが直助の機械導入への

足がかりとなったのである。


昭和7年までに50町歩の荒地を買い求めて、昭和11年には、

登米郡中田町、南方町にまたがる旧迫川の廃川80町歩を

買収し、全盛時には130町余り、1反歩田んぼに換算すると

1300枚を上回る耕地面積を所有する大地主になった。


戦後になってマッカーサー指令による「農地開放」により

開田した11町歩と登米郡内の中田町の30町余り、南方町に

3町程の未開墾地が対象から外され残っただけだった。


直助は後に人生の最後の情熱を振り絞ってふふたたび廃川となった

旧迫川の遊水地帯の開墾事業に取り組む。


昭和22年、沼部村、16代村長となり水害のない村づくりを目指していた。