洪水の際、浸水
しない様床が高い
直助の新居








三笠宮殿下へ
築堤事業を
訴える直助村長

開墾の夢再び

直助は公選第1号の村長に選ばれ、先祖代々苦しんだ無堤防地帯に堤防を築き、

泥の海の恐怖から村人を救った。農民が最も恐れていた水害から克服した。


            任期の4年が過ぎ、直助は「4年間もやれば十分だ。わしは、

            もともと農民のはしくれだ。水害に悩む農民を救うために

          村長になったが、やる事はやった。もう、村長になって

            やる事はないべや」

         直助が、この時立候補を決意すれば再選される事は

           確実だった、しかし、村長になったばかりに自らの手で築いた

       農場を無条件で農地開放の推進派に回された。


           余りにもすげなく立候補辞退を明らかにされ驚いた側近を見て

      直助は当惑しながらも、「銀行を経営すてみっかー」と

    突然言い出し、周りの人たちを二度びっくりさせた。

              しかし直助はやはり、「百姓が土を見限ったら、

この世は終わりだ。

          わしゃドン百姓のせがれに過ぎん。これからは、

また開墾だ」

直助は沼部村村長に再度立候補を断念し、

再び開墾事業に取り組んだのはそれから

5年後の事である。










江合川の築堤
工事














人海戦術の迫川
開墾











テレビ出演した
直助

















中田町の住ま
いもやはり
高床    
見学者と








旧迫川開墾

戦時中に買収した未開墾地がそっくりそのまま

解放の対象から外され、直助が人生最後の

ふりしぼる、登米郡中田町と

南方町の原野が

戦後の只野農場と呼ばれた所である。

中心は中田町南西部に位置し、

迫川の堤防地

であった。表土は砂壌土で深く

地味肥沃

であった。ひたすら己を信じて生き、

わが道を唯一筋に歩んできた。



その直助も昭和31年3月25日に

還暦を迎えた。数え年61歳と

人生峠を超えたのである。この年、

直助は家督の博祐、

三男三郎、

四男四郎ら子供たちと共同経営形式で登米郡中田町の

土地改良事業共同施工を設立した。

多額の開墾資金が必要になった。このため、直助個人の

事業とはしないで息子たちとの共同経営にし、

3年据え置き15年償還の政府資金1430万円、

自己資金470万円の総事業費1900万円を開墾につぎ込んだ。


工事は請負で、水田28町を造成した。

この田んぼには機械化を進めるため幹線農道を4メートル幅にし、

一般農道も横断道路は216メートルごとに3メートルの

待避所を設けるほどの念の入れようだった。

また、中田町の農場は当時としては画期的な

1枚の田んぼの面積が6反から1.2町

もある驚く程の広さであった。






直助は農場見学者に、「かん水や

作業にさして不便ではない。むしろ水は著しい用水の

節約効果があるし、機械化になればほとんど平均化し

、たん水傾斜が収量を損する程の事はない。耕起や

代かきは1反歩あたり延べ9時間かかる。それが1町歩と広いと

作業がしやすぐ反当たり3時間ですむ。問題は田植だげ

機械化が出来ず、従来通りの手植えで、水を張った

田んぼに畦畔代わりに竹を立てている。これも将来直播や

刈り取り機を使えば必要なくなる」と語っていた。


旧迫川の開墾は3年計画で進められ、昭和34年には

完成し再び直助は農場主に返り咲く事が出来た。

南米只野農場と呼ばれた第1農場は相続人の博祐が場長となり、

南方の第二農場と中田町の第3農場は三男の三郎が管理、

そして古川高校から東北学院大へ進み、この年卒業したばかりの四郎が

只野農場運営(庶務会計)を担当するという、極めて合理的に

職務分担を決めて経営したのである。




















NHK生放送で
日本一の只野
農場紹介





























20年ぶり麦収穫に
稼動した
時の当時の
コンバイン

大型機械と計画

昭和28年農地法が改正され、10町歩農家もあったが、個人としては直助が

新たに開墾した耕地を含め44町5反の所有が全国一の規模となった。

新たに開墾した田んぼを含めて35年の収穫が1200石というのも、

全国一の出荷量となった。


只野農場は旧態依然とした農業経営を根底から改めようとした。

労働時間は8時間、日々の賃金を支払い、先駆的な農業機械を

次々に導入した。農業機械はほとんど外国製の舶来品だった。

4.5メートルもあるカナダ製の当時600万円もした

大型コンバインを中田町の農場に運び込んだ時、

まるで怪物のような機械に目を見張った。

ゴーゴーと音を立てて広い田んぼの黄金の

波をみるみるうちに刈取、脱穀してしまう。

2町歩もある1枚の田の向こう端は、

陽炎にかすむスケールの大きい田園の

中で面白いように仕上がっていった。




周囲の農民が「まるで怪物みでだー」と

驚いた大型コンバインのエンジン音はやがて

到来する農業の機械化を呼び覚ますものだった。

しかしコンバインの作業能率よりもモミの搬送や袋詰の

下回りでどうしても作業に空間が出来た。

この当時にすれば大型コンバインやトラクターだけでも

画期的な事だった。これに加えてもその乾燥・調整を受け持つ

ライスセンターの建設にも取り組んだ。

直助はこの時すでに農場の安定経営策に農業法人を

画策した事もあったと聞いている。

当時の主な計画としては
①用排水路農道改修及び区画の大型化、揚水機場の補修強化、

土地改良は通年施工

②小型耕運機を大型ホイールトラクターにし、コンバイン、乾燥機を

入れて雇用労働力を少なくし、機械の償却を最小限にする。

③直播による省力栽培の全面的実施。                 

④乳牛、豚を共同経営者の労働力に応じて取り入れ、牧草栽培も

行う・・・と稲作一辺倒に固執していなかった。

これにいつでも新しい農業技術を受け入れられる体制にし、

常に生産費の軽減化を進め、石当たりの生産費を下げる

計画を討ち立てたのである。


昭和38年中田町の第3農場の一角(3.2町)を大型機械化実験農場

として貸与した。直助は農場を県へ提供したのである。


昭和30年代の前半は比較的安い賃金で豊富な労働力を

確保できた。しかし、いくら安いとはいえ、

只野農場は田植だけでも700人にのぼった、春耕はトラクターで

多少の労力をはぶけた。ところが田植の機械化を図る事は、

この当時、不可能に近かった。

そこでこの時すでに2町歩の田んぼに

直播の実験を試みていた。


403型コンバイン
現在でも農場格納庫に保管






最初に入れたコンバインと同型
(となり403型より小型)