直助は昭和41年春、第1次入植者選定審査委員に 任命され、翌42年に第二次、 43年第三次まで携わる。 その後第五次をを合わせて589戸が入植した。 新農村の建設を目指すパイオニアとして 全国から応募者が 殺到し、直助ら選定審査委員は各都道府県から 寄せられた入植希望書類に目を通した。 農業経営を学術的に知り尽くした委員の中で、 直助は唯一人の農民代表である。 選考委員は東北大農学部の平野教授、 東北農業試験場の 岩崎場長ら5人のメンバーだった。 |
帆掛舟による漁 |
干拓前の八郎潟湖 干拓後の 「新生の大地」 |
「今より楽すっぺと思うなら行がねほうがええ。 これまで先祖が築いでくれた財産・ 生活環境すべてを 投げ捨てで行ぐごどになっぺ。 今の十倍いやそれ以上の苦労は覚悟の 上ならいいが・・・」 と入植希望者へ警告は忘れなかった。 しかし、いざ新天地の水田で水稲栽培を 開始しようとした昭和45年春第1次生産調整で ”減反”に出鼻をくじかれた。 収支の面はざっと年収1500万円のうち経費が 1200万円だから残る300万円で生計を切り盛り しているという。 「八郎潟じゃ食えね。トラック運送で農閑期に 生活費を稼がねえど」 と一人の入植者は言い、 こうも語った。 「俺が入植するとき、只野農場主が苦労を覚悟で 行けと言った。やっぱり甘い話にゃ、 乗るもんじゃねぇ」と・・・・・ 小規模ながら先祖の残した5反歩の田んぼと わずかばかりの畑で食いつないできた生まれ 故郷がつくづく恋しいと言う。 |
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