減反と直助の決意





開田の田植え風景

















孫を抱く直助
米国最大の穀倉地カリフォルニアから来春、息子も農業実習を

終えて帰国する。

直助は、水害による凶作を来年秋には3000俵出荷して

ばん回してみせると豪語した。73歳の秋であった


国の食糧増産に従い直助は、八方破れともいえる多額の借財を背負って

大規模農場で米作りにいそしんできた。国民の胃袋を満たしてやる事に

生きがいを感じ幾多の困難を乗り越えてきた。

その自負心を根底から覆す政策が打ち出された。



余剰米減らしと慢性的な食管赤字解消を図るための

『一割減反政策』である。



直助は目の前が真っ暗になるほどショックを受けた。

「許せん。国民の生命をあずかり、食糧増産に打ち込んだワシら農民に

減反を命じるとは一体何ごったァー」

直助の怒りは全国農民の憤りとも言えた。



水害を克服するため、あらゆる再建策を練り、

1年間の米国留学から帰国する息子を一日千秋の思いで待ち続けていた。

米国式農業を只野農場に取り入れる計画だったのである。

その矢先に1割減反の生産調整が発表され、

「米をつぐるのが百姓の役目だ。そいづを1割も休耕すろどは何事だ」

と断固反対する考えだった。待ち望んでいた動力田植機械が完成し、

それに米国から息子が帰国すれば鬼に金棒であった。



食糧庁は食管法では全量買い上げを建前として決して予約制限はしない。


ただし、生産調整(減反)を行えば米の過剰処置に協力した事になると

言明は避けながらも減反をチラつかせるものだった。



「もしワシが減反に逆らえば、ワシに従う者が出て大変な事になる。」

































































































政府は休耕奨励金として5千円から4万円出すという。

休耕とは、有史上にない政策である。


直助が休耕を決断したのは種籾を浸種する直前で実に

数ヶ月を要した。

息子たちを集めて「どうしたらいいべと思ってこれまで考え抜いダ。

只野農場は一割減反

じゃなく全部休耕だ」と言い切った。



「お前らは不服だべ。んでも一割じゃ効果が薄い

全面休耕する」

家族を唖然とさせた。

日本一の規模を誇る只野農場が1割減反政策に従い前面休耕

すると言うニュースが一斉に報道された。

直助は農場のファミリー経営を円滑にする為、

沼部農協の川村組合長や峯浦理事の勧めで

農政に明るい佐々木敬一を顧問に依属していた。

佐々木とは、大貫沼部と旧田尻が合併した昭和29年の

田尻町長選挙で雌雄を決した間柄であった。

佐々木は、昭和46年の統一地方選で県議となる。



直助は、農場の全面休耕と言う”爆弾”を抱え、県庁へ乗り込んだ。

係官に「只野農場の田んぼ42町歩を全部休耕すっからー」

と直助は高めの声で語った。

赤茶けた髪にやや白髪交じりの老いた身を応接椅子に落ち着けた。

係官に先客の応対でさんざんまたされた。


係官は慌てながら、

「45年度分はすでに予算が決まっているので・・・」

という答えを繰り返した。

「そんなバガな事ありスカ。45年に決まった減反でがスペ、

だったら45年度に基盤整備をやるのは当然だ」

語句をいくら高くしてもムダだった。そこへ偶然にも佐々木敬一が

やってきた。「いやあ、只野さん。休耕に感謝します。

ここではらちがあきませんから知事室に行きましょう」

佐々木の案内で、直助は山本知事と直談判する事となった。

山本知事は、直助が部屋に深々と頭を下げて入ってくると、

「どうも、知事の山本です。噂はかねがね聞いていました」

と椅子へ手招いた。山本知事は、減反政策は全面的に

賛同でいないとしても、食管を守るには個々の農民に協力を

仰がねばならないと苦しい事情を説明した。

それも全面的に減反政策に従うのではなく、

農民の自由意志にゆだねるという ”みやぎ方式”を

力説するのであった。


直助は、農場を経営できたのも国の援助があればこそだー

と全面休耕に踏み切ったことを山本知事に詳細に述べた。

この勇断に山本知事も感服し、只野農場の基盤整備計画に

県が全面的に協力することを約束したのであった。

基盤整備は、すべて大型コンバインを導入できる

機械化農場を目指した。

これまで自費で基盤整備を進めてきたが、

仕上がりは企画が統一せずバラつきが見られた。

県庁の技師が指導に来た際、直助は、

「こんな農場じゃめんくさくてなんね。今度は専門技師が

来たんだから至れり尽くせりだね」と語った。

図体もでかいが、やることもでっかい。一時、減反政策に

激怒したが、食管維持の建前から農場をそっくり休耕してしまった。

その背景には農場の基盤整備を一気に進め、

機械化農業を図る計画だった。


生産調整2年目の昭和46年春、直助は前年試みたそば栽培が

手数もかからず、まずまずの収穫を上げたことから

登米郡中田町の第三農場27町余を転作に振り向ける事とした。

ところが、米作りのために開墾した開田は

そば栽培にそっぽを向いた。

おまけに夏の終わりごろから長雨が降り続き、異常低温に

たたられて大部分が枯れてしまった。

収量は予定の1割に満たないものだった。

金の損失はともかくも転作を失敗した事がショックだった。

それでも直助は、「田んぼに何も植えてやらにゃー、土が泣くぞ」

と家族の前で独り言をつぶやいた。

「ワシらは生まれた時からつづ(土)に語りかけながら生きてきた

土地に何も植えねえってごどは、百姓をやめだっつうことになる

それではつづがかわいそうだ」



転作のソバの栽培に失敗した直助は、一人旅に出た。

淡路島や四国めぐりをし、すべてから開放されようとした。

旧迫川開墾が完成し、3000俵近い出荷をした時、

生まれて初めて香港へ海外旅行を楽しんだ事もある。

「どうせ、ワシの命もそう長くもあんめ。人生諦めが肝心だ。

じっくり腰をすえるほかねがんべなー」

老いたとはいえ、機転の早い直助であった。・・・