土に消ゆ |
|||
只野直助 |
実りの秋も只野農場にある大型コンバインは、 働くことを忘れたかのように動かなかった。 黄金波打つ農場を巡視する時、 直助は愛馬に乗って北小牛田の自宅から山越えして第2農場、 第3農場を回ったものだ。 穂首を重くたれ、まるで直助が来たのにお辞儀しているようだった。 米を作りたくても作れない。 男らしくきっぱり断念した。しかし、いくらわが心に言い聞かせても 身体から湧き上がる憤りをどうすることも出来なかった。 「ワシももうろくすたものよ。子供達に強がり言ったが、 こんな辛いこたぁ生まれて初めてだ」 暮れなずむ農場で、死に掛った大地を踏みしめる直助を、 静寂が包み込んだ。 荒涼とした田んぼ。稚苗から穂首のたれる稲穂が育つ田んぼは、 全面休耕で眠り続けた。 「ソバはだめだったが、ヒエを植えでみっぺ」 直助は、田んぼに語りかけたが、米作りの将来に見切りをつけた 心労は深まるばかりだった。 朝夕の冷え込みが厳しくなった秋口、 直助は背中に懐剣を突き刺される鈍痛を覚えた。 じっと身をかがめ、動かないでいると、 その痛みは自然に遠のいてしまう。 「寝違えたかナ」 と直助は最初軽く見ていた。 しかし、背中の痛みは、幾度も反復した。 各農家で収穫の喜びをかみしめて稲刈作業に精を出しているとき、 直助は登米郡中田町の第3農場にある自宅から 若柳公立病院に入院した。 病名は肝硬変だった。 直助は、体調の良い時に90キロを越す体重だったが、 病院に担ぎ込まれた時には80キロ以下になっていた。 主治医から、軽い肝臓障害と言われた。 病名を打ち明けられて安心したが、 日ごとの衰弱は弁明の仕様がなかった。 直助が病床に着いたとき、ざっと6000万円を超す借財を抱えていた。 窮余の策を練るため、直助は病床を抜け出して奔走した。 只野農場が水害に見舞われた昭和44年の秋、 顧問の佐々木敬一や農場の借財いっさいを肩代わりした沼部農協でも 万一の場合に備えて改善策をみやぎ県庁、 農林省と協議を重ねていた。 この結果、誕生したのが宮城県農地管理公社であった。 農地管理公社は、農業経営を断念した農民の耕地を、 所有権は残したまま後者が責任を持って管理し、 耕作希望者へ賃貸しに出す委託経営機関である。 農場の全面休耕に踏み切り、 一時米作りに変わる転作も試みたが失敗の繰り返しに終わった。 そして,病床の身で屈辱的な農場を賃貸しに出すことは、 只野農場の実質的な崩壊とも取れた。 主治医か止めるのも無視し、直助は病院から抜け出して統一地方選で 当選した佐々木敬一県議、川村清夫沼部農協組合長 峯浦理事らと相談した。 峯浦理事は、直助が沼部村長時代に開拓地へ分校を 建ててもらったことがあった。 わずか四十数戸の開拓地。その一握りの辺地へ沼部小学校への 通学不便を理由に分校建設を要望し、 直助村長が実現してくれたことを、峯浦理事もわすれてはいなかった。 公社は貸しに出した農地は委託経営期間が経過すればそっくり 返還する事などを 佐々木県議から説明を受け、 「もス、仮にワシの農場を公社へ預けてスまえば借金はどうなっぺ」 と直助は訪ねた。断腸の思いであった。 「まだ、はっきりしたことは言えません。なにせ只野さん、 あなたの農場が 農地管理公社の初仕事ですからねェ」 佐々木県議は農場を救う為に県を動かし、 農林省と掛け合って公社を実現させたものである。 しかし、公社を農業経営難に陥った人たちの救済機関と誤解されては、 日本一の農場を誇った直助のプライドに傷がつく。 あくまでも会社は将来の稲作経営の橋渡し役で、 多額の借財を抱える農民にとって朗報と言えた。 直助は、病床で安静を保ち、主治医の指示に従えば 回復の望みも持てた。 それをひとときもベットで静養しなかった。 この不治の病と闘いながら、直助はちょっと体調が回復すると 無断でタクシーを呼んで病院を抜け出し、 人生最後の仕事として打ち込んだ。 直助は、自分のまいた種は自分で始末し、子供たちや只野一族にまで 迷惑をかけられないと言う心境だった。 米は作れば売れると言う甘い考えが誤算とも言えた。 病室に身体を横たえた直助に付き添っていた息子や家族を前に、 「政府の減反は5年間だ。 どうせ5年も米をつくらねぇんだったらいっそこの倍の 十年間、後者に預けですまうべ。十年も経てば時代もかわっぺすな」 と語った。誰も返事はしなかった。返答のしようがなかったのである。 子供にとって直助の存在はあまりにも偉大であった。 「出来れば米作りを続けてぇ。農場の将来を思って四郎を米国留学させた でもナ、減反が今度だけと言うこともあるめぇ。 農場にも人手が集まらなくなった。 ワシは十歳の頃から父親に百姓仕事を教えられだ。決スて後悔の一生では なかった。農場は全面休耕のついでだア。 全部を公社に預けることにスた」 と直助は一気に語った。 農場の借入金は、昭和47年春に七千数百万円となっていた。 それを公社に全面賃借にだせば、十年間で総額 七千九百万円の”小作料”が入り、借入残金をそっくり返済できる。 直助は、窮余の策である公社委託で借金ゼロになるのであれば 十年間にわたって家族が農業以外の収入でも生きていけると思った。 自分の築いた農場から息子ら家族を追い出し 新たな勤めで生活を維持させることは心苦しかった。 その場合、所得税の軽減する措置が是が非でも必要になった。 早速、顧問の佐々木敬一県議に免税などの 特例措置を講じるよう相談した。 佐々木県議は、衰弱する一方の直助に、 「只野さん、荒れ地を開墾して食糧難時代にコメを作った功績は 国民が知ってますヨ」 と励まし、只野農場存続を約束した。 佐々木県議は、直助に相談を受けた翌日上京して農林省、大蔵省へ 陳情し、小作料所得を5年分ずつ2回に分割して 課税することを確約させ、さらに特例で平均課税扱いにして 大幅に軽減することとなった。この報告を病床で聞き、 直助は苦労した甲斐があったと喜んだ。 「10年間辛抱すりゃ、借金は帳消しになる。 借金さえなけりゃ少々の不作でも不自由のねえ生活も出来っぺ そスて、10年経てば農政も良くなるだろうスな」 |
||
宮城県農地管理公社は、昭和47年5月、5375万円、6月に1896万円の 小作料を支払い、只野農場の借入残金の全額を肩代わりした。 この時点で、直助が大正11年から開墾で築いた只野農場は、 経営権を全面的に公社の手にゆだねた。 直助は、病床で見舞客から農場がつぶれたと誤解されたことが 一番つらかった。 弁明のしようがなかったからである。 結局、農場を委託経営の賃貸しに出した段階で、直助の生命も尽きてしまう 直助は昭和47年8月7日夕病死した。 76歳であった。 直助が死んだ日は、朝から小雨が降っていたという。 若柳公立病院には、家族、兄妹、只野一族が危篤を知って 小雨の中を見舞いに駆け付けた。 かつて身長180センチ、体重90kgを超す巨体で東奔西走した 直助の面影はなかった。 一石俵(60キロ入2俵半)を軽々とかつぎ、 三百数十人の元涌谷村民をマルタ1本でけちらし、 総面積180町余りの野谷内開墾をした一代の大百姓は、母が、 そして、父がたどった「土化」に秒刻みで近づこうとしていた。 主治医はこん睡状態に陥ったので親類縁者へ知らせるように告げて 病室を出て行った。 雨が無情に思えた。その雨も夕方やんだ。 すると、真夏の太陽がさっと病室へ降りそそぎ、 ベットに眠る直助を包み込んだ。その時のことである。 「ああ、あー」 と直助は、大きな欠伸(あくび)をした。病室、廊下で安否を気遣う人たちに はっきり聞こえる欠伸であった。 もしや意識が回復したのではと思い、妻や子供たちが 枕元へ近寄ったが、それっきり呼吸が途絶えたという。 |
|||
法名は「空耕心院覚禅大悟居士」。 寺は小牛田町新証寺の尼寺が、北小牛田の共同墓地になっており この一角に永眠している。 まわりは田んぼに囲まれ、黄金の波がそよぎ、 穂首を垂れた稲の群れが、 そっと直助に語りかけていることだろう。 直助の死後のことである。只野農場で働いていた 娘たちは新たな勤め口につき生計を立てていた。 2代目の農場主となる博祐は自動車整備工場 三男三郎はガソリンスタンド、四男四郎は保険会社、 長女百合子の息子は長距離トラックの運転手になった。 サラリーマンの転職や脱サラは珍しくない。 しかし、農業一筋に」生きてきたものが、 離農することは容易なことではなかった。 それも日本一の大百姓とうたわれてた父の死とともに農業を捨て 偉大な父を見失いそうになることが悲しかった。 その十年間は,またたく間に過ぎて昭和56年春、 登米郡南方の5町、暮れになると北小牛田の8町1反、 登米郡中田町の28町歩がそっくり無傷で遺族に公社から返還された 直助は、10年後の農業経営に大いなる期待をかけて永眠した。 その後、登米市中田町の農場は三男三郎が只野農場集団栽培組合を 立ち上げ当初は、揚水設備などの老朽化で転作を主体として経営をしてきた。 そして、平成6年に農場の全圃場を水田に戻す大規模な「復元田工事」 を施工し、平成7年には全面積水稲作付けに成功している。 平成8年には、「有限会社只野農場」を 設立、法人化とし直助の三男三郎が会長、社長に五男直義、 専務に三郎の長男直俊(このホームページ作成) 後継者に直俊の長男利弥らが 農場の経営を「土魂」をむねに経営を担っているのである。 おわり |
|||
|
|||